「岩亀稲荷の由来」の碑

「岩亀稲荷の由来」の碑です。

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JR桜木町駅と野毛方面のあいだを通る新横浜通りを横浜駅方面に進み、ちょうど紅葉坂や掃部山を過ぎたあたりにある雪見橋の交差点を左に入り進んだところに岩亀稲荷があり、その岩亀稲荷の中にこの碑があります。

「横浜の開港は安政六年(一八五九)、開港当時の横浜の歓楽街は港崎町(横浜スタジアム辺りで隣接する日本庭園に岩亀楼と刻まれた石灯篭が保存されている)から高島町に移り一、二を争う大楼岩亀楼があった。三層櫓式の楼閣が偉大さを誇り、夜目にも美しく人々の話題となった。当主は佐吉といって埼玉県岩槻の人でその音読みで「がんき」と呼ばれていた。この岩亀楼一番の売れっ子、喜遊(亀遊説もある)太夫がペリー艦隊の軍人に言い寄られたが、これを拒み「露をだに いとう倭(ヤマト)の女郎花(オミナエシ) ふるあめりかに袖はぬらさじ」と有名な辞世を残して自害した。この句から幕末の遊女気質が十分伺える。遊女達が病の時、静養する寮が岩亀横丁にあり遊女達が信仰していたお稲荷様が岩亀楼の寮内に在ったので岩亀稲荷と呼ばれ現在も信仰が受け継がれている。このお稲荷様にお願いすると必ずそのご婦人の病いがなおると言い伝えられ、毎年五月二十五日には盛大に例祭が営まれている。」と碑文にあります。

以前紹介した横浜公園内にある岩亀楼の石灯籠にあったように、当店の近所にある横浜スタジアムや横浜公園一帯は昔遊郭だったのですが、その遊郭の中で一番豪奢な女郎屋が岩亀楼だったそうです。

その岩亀楼の女郎達が静養する寮がこの辺りにあったという事ですね。

当時幕府は外国人相手の公娼を鑑札制にしていて、外国人には専用遊女(羅紗緬)のみが相手をしていたとの事です。当然岩亀楼も同じで、内部は外国人用と日本人用に区切られていたそうです。
亀遊は羅紗緬ではなかったのですが、外国人から身請けの話が舞い込みます。亀遊は身請けを固辞し、結果自殺したという話のようです。

この碑文にある「遊女気質」がどのようなものなのか私にはよく分かりませんが、昔このあたりにはあまり知られてはいない、華やかには語られない女性たちが確かにいたという事だと思います。

なんとも悲しくそして何か歪んだ話のような気がします。

 

カテゴリー: 三代目の一言, 横浜『碑』巡り
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