『ゲーテ座跡』の碑

「ゲーテ座跡」の碑っす!

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港の見える丘公園から根岸の森林公園に向かう道、港の見える丘公園を出たすぐのところにこの碑はあります。

『明治18年(1885)4月、この地に慰留外国人のための劇場「パブリック・ホール」が開場した。アマチュア劇団の芝居、音楽会等種々の催し物が行われた。設計はポール・サルダで、建坪270坪、赤煉瓦造りであった。
明治41年(1908)7月、「ゲーテ座」と改名した。大正12年(1923)の関東大震災で倒壊するまで外国人の社交場でもあった。この前身は、オランダ人へフトにより現山下町68番地に明治3年 (1870) 開設された 「ゲーテ座」 と名付けられた劇場である。』と碑文にあります。

碑の後ろに建っているゲーテ座(旧ゲーテ座、現岩崎博物館)は、日本初の本格的演劇場であるとの事です。
元々は居留外国人達の案をもとに、1870年(明治3年)に横浜居留地の68番地に「パブリックホール」が建てられ、数々の催し物のために利用されていたのですが、「より広いパブリックホールの建築を」との運動が起こり、 1885年(明治18年)4月18日に現在の場所である港の見える丘公園近くに建設されたのが現在のゲーテ座(旧ゲーテ座、現岩崎博物館)という事だそうです。 因みに当時の収容人員は350人だったとの事です。

 この建物がゲーテ座と呼ばれるようになったのは、 1908年(明治41年)12月以降の事で、演劇・音楽会・講演会など、多種多様な目的に利用されました。 当時の観客は、外国人が主体であり日本人は少なかったようです。 ただ、その少ない日本人観客の中には著名人が多く、滝廉太郎や坪内逍遥、北村透谷に芥川龍之介、 そして大仏次郎など、後の日本文化に大きな影響を与える人物が ここゲーテ座に通い詰めたとの事です。

 その後に起きた1923年(大正12年)の関東大震災によって、 一旦は建物が崩壊してしまったが、1980年(昭和55年)、岩崎学園によって復元され、 衣服やアクセサリーなどの服飾関係の展示品、 ゲーテ座にまつわる資料が収められていいます。

尚、ゲーテ座の「ゲーテ」の語源は、 詩人のゲーテではなく、英語の「陽気・愉快・快活」という言葉がその命名の由来となっているとの事です。

ゲーテ座の中にはミュージアムショップというかカフェというか、飲食出来るお店が入っています。以前は食事をした方にポストカードをプレゼントする企画を行っていて、そのそのポストカードがちょっとオシャレな感じだったので、「一度行かなきゃな。」と思っていたのですが、いつの間にかその企画は終わってしまい、ちょっと残念に思った事がありました。

思いついた事は早めにやらなきゃいけないのかもしれませんね。

カテゴリー: 三代目の一言, 横浜『碑』巡り
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