『岩亀楼の石灯籠』とその碑

岩亀楼の石灯籠とその碑

横浜公園の南東部分、ちょうど横浜中華街の北門(玄武門)やNTTさんに接している一区画が小規模ながら日本庭園風に整備されているのですが、横浜スタジアムからその区画に入ったところにこの石灯籠と碑があります。

碑文からは「横浜公園一帯は江戸時代末期までは入海で、安政三年(1856年)に埋め立てられ大田新田、横浜開港にともないさらに埋め立てられて港崎町(みよざきちょう)と命名された。その中に岩亀楼などが開業し、国際社交場として栄えた。しかし慶応二年(1866年)の大火で港崎町一帯は消失、跡地に日本最初の洋式公園(横浜公園)が誕生した。岩亀楼(がんきろう)も類焼し、以後、二転三転した後に明治17年(1883年)に廃業。」といった情報が読み取れます。

以前『リチャード・ヘンリー・ブランドン像』の投稿で記しましたが、横浜の開港当初、この場所には遊郭が建っており、その遊郭のなかでひときわ豪華な女郎屋が岩亀楼(がんきろう)だったとの事です。

港崎遊郭も岩亀楼も1866年の大火で消失し、吉原町(現在の伊勢崎町の一部)に移転し「吉原遊郭」改名、岩亀楼も吉原遊郭内で存続します。遊郭はその後も火災での焼失のたびに、現在の高島町(高島遊郭)や真金町(真金町遊郭)に移転・改名し、最終的には1950年代終わりの赤線廃止まで「永真遊廓街」として存続したそうです。
「岩亀楼」も栄真遊郭街への移転・改名まで存続し、1884年に廃業したとあります。

横浜にもあまり知られてはいない、華やかには語られない色々な歴史がありますね。

岩亀楼の事を調べていた時にもう一つの物語を知りました。

1867年、岩亀楼には亀遊という遊女がいたそうです。当時幕府は外国人相手の公娼を鑑札制にしていて、外国人には専用遊女(羅紗緬)のみが相手をしていたとの事です。当然岩亀楼も同じで、内部は外国人用と日本人用に区切られていたそうです。
亀遊は羅紗緬ではなかったのですが、外国人から身請けの話が舞い込みます。亀遊は身請けを固辞し、「露をだに いとふ倭の 女郎花 ふるあめりかに 袖はぬらさじ」という辞世の句を残して自刃したしまったという話があります。当時は開国派と攘夷派が争う世の中で、攘夷派の遊女がいたとされた岩亀楼はたいそう栄えたそうです。
そもそもこの話は実話であったかどうかも定かではないようですが、その後脚色に脚色が重ねられ、のちに有吉佐和子が1970年代に小説にして、その後戯曲『ふるあめりかに袖はぬらさじ』として上演されたとの事です。

羅紗緬という言葉を耳にした事はあったのですが、意味をまったく知りませんでした。

そういう時代だったといえばそこまでですが、なんとも悲しくそして何か歪んだ話のような気がします。

カテゴリー: 三代目の一言, 横浜『碑』巡り
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