『リチャード・ヘンリー・ブランドン像』

リチャード・ヘンリー・ブランドン像

JR関内駅のすぐ近くの横浜スタジアムがある横浜公園内、日本大通りに面した公園入り口付近のこの像はあります。

店から関内方面に移動するのに横浜公園を横切ることが多いのですが、その時によくこの像を目にしていました。

リチャード・ヘンリー・ブランドンは、幕末から明治にかけて「殖産興業」などを目的として、欧米の先進技術や学問・制度を輸入するために雇用された外国人、いわゆる「お雇い外国人」の一人で、1860年代末から70年代中盤にかけて日本に滞在し、灯台26、灯竿5(根室、石巻、青森、横浜西波止場2)、灯船2(横浜港、函館港)などを設計した「日本の灯台の父」と讃えられている方らしいです。
横浜公園では「近代まちづくり」や「近代式公園」等々のキーワードが目に付いたのですが、滞在中の活動拠点であった横浜では、横浜公園の設計や日本大通の西洋式舗装技術を利用した整備も手がけたとの事です。

横浜公園一帯は1856年頃に埋め立てられた太田屋新田という埋立て地だったそうです。
横浜開港にともない、新田の沼地約1万5千坪が更に埋立てられ、港崎町(みよさきちょう)と命名され、国際社交場として栄えたとの事です。
港崎町一帯は慶應2年(1866年)の大火(通称豚屋火事)で焼失し、跡地は当時在留の外国人の要望で公園として再生することにきまり、明治9年(1876年)日本最初の洋式公園(今の横浜公園)が誕生しました。
当初、彼我(ひが)公園と俗称されていましたが、明治32年(1899年)神奈川県の所管から横浜市の管理に移り、市民に公開され今に至ります。

なんでも公園内には灯籠があり、その灯篭は妙音寺(南区三春台)から横浜市に寄贈されたもので、「岩亀楼」という文字が刻んであるそうです。
岩亀(がんき)楼は、幕末期、横浜開港に伴い、開港場を横浜村とすることに反対する外国人を引き付けるため、また、オランダ公使からの要請があったことにより建設された港崎遊郭にあった女郎屋の一つで、遊郭の中でも特に豪華で、昼間は一般庶民に見物料を取って閲覧させていた程の設備を誇ったとの事です。
今は横浜公園であるこの場所に設置された波崎遊郭は、名称や場所を転々と変え最終的には永真遊廓街として1958年の赤線廃止まで存続したのですが、岩亀楼は1884年まで存在してたようです。

この灯籠は明治初年頃のものと言われていますが、実際にはいつ妙音寺に移されたかは判明していないそうです。

今公園であるこの場所には遊郭が建っていた歴史があるのですね。
横浜公園にそんな歴史がある事も、そんな貴重なものがある事もまったく知りませんでした。

時間を見つけて灯籠を探してみたいと思います。

カテゴリー: 三代目の一言, 横浜『碑』巡り
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